まこちゃの、考える映画ブログ

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映画「22年目の告白 私が殺人犯です」は、どう楽しめば良かったのかをネタバレ全開で考える

2017年上半期の映画業界、ぶっちぎりの強さを見せたのが「美女と野獣」だった。
往年の名作を、美しい映像で再現したこの作品、根強いファンが当たり前のようにいる為、その強さも納得がいった訳だが、そんな「美女と野獣」を首位から陥落させた映画があった。

映画「22年目の告白 私が殺人犯です

3週連続の首位を記録した大ヒット映画で、評価も高い作品だが、私はあえて問いたい。

この映画は「どうやって楽しめば良かったの?」

ここからはネタバレ全開で、この映画の問題点を考えていこう。

問題点その1
何故、22年間も捕まらなかったのか?
まず、この映画の楽しみ方は「犯人がどういう奴なのか?」だと思う。
22年間も警察を欺き、時効を迎えたら記者会見を開き、サイン会まで開いてしまう大胆不敵な男。
世間は男に魅了され、カリスマ的な存在になる。
取り逃がした刑事や、被害にあった遺族からすると、悲惨な状況となる訳だが…そもそも何故捕まらなかったのか?の説明が無い。
ましてやこの犯人は、刑事と一度格闘をしており、その際に左肩を撃たれているという、とてつもない特徴を持っている。
なのに、何故逃げ切れたのか?
ここは結構大事なポイントだったとのではないかと、全く触れないのは問題だと思う。

問題点その2
後付けがとてつもなく、裏切り方が酷い
この映画の楽しみ方は「時効を迎えた殺人犯、曾根崎の正体」を探る事にもあると思う。
時効を迎えて姿を現した曾根崎の目的は?そもそもこの男が殺人犯なのか?という点。
結論から言うと、曾根崎は犯人ではなく、刑事の牧村の妹と交際していた元恋人の拓巳だった、真犯人が牧村の妹を殺害した為、犯人をおびき出すために牧村と結託していたのだ。
ただ、それは映画を観ていると、何となく観客も気付いてくる。
映画は、その観客の予想を覆す為に、映画の途中で拓巳が自殺するシーンを入れる、観客は「じゃあ、違うのか?誰だ?」と思う。
だが、全ての真相が明らかになった途端「実は拓巳は生きてました」という回想シーンを入れてくるのだ。
この展開に「酷い!」と思ったのは私だけだろうか?
この展開が続くなら、後から「実はこうでした」の回想シーンを入れていけば、映画は成立する事になる。
後付けが酷い展開は、指摘する批評家もいたが「そんな事は気にならないぐらい映画はパワーに満ちている」と評価する人も多い。
果たしてそうか?私は、その後の展開がどうでも良くなったが、ただ「じゃあ犯人は誰よ?」という部分で楽しむ事にしたのだが…。

問題点その3
犯人が明らかに!そこから山のように溢れる疑問点…
「じゃあ、犯人は誰なのか?」その展開に進む為、映画はニュース番組のキャスター、仙堂のインタビューシーンに移行する。
仙堂の別荘で行われるインタビュー、そこに現れる拓巳、そして犯人が仙堂だと判明する。
そこから、仙堂が犯行を認め、1人語りに入り終いには「俺を殺せ!」とか「この殺人は美しくない」とか意味不明な事を口にするのだが…何だよ!この展開!
警察は、ニュースキャスターとしてテレビに出演していた男の証拠を何も掴めなかったの?
左肩撃たれてるんだよ?
他にも、突然殺人を止めた意味も分からない、精神的な病気で抑えられなかったんでしょ?
拓巳に指摘されただけで、あっさり認めた意味も分からないし、拓巳が仙堂を犯人と確信したのも「ボールペンを差し出して来たから」って、それで真相に辿り着けるなら、警察は22年間、何をしてたの?

この映画の不満はこの一言で「警察はそんなに無能なの?本当に何をしていたの?」である。

これが「ターミネーター」とか「リーサルウェポン」とか「現実的な事は気にせずに楽しむ映画」なら、いちいち気にしないが、この映画がサスペンスとジャンル分けされるなら、ある程度は現実的な部分は必要だったのではないか?

 

仙堂を取材している人たち目線で、話が進めば良かったのでは?
そこで、私なりに考えたのは、映画を進める目線は「仙堂を取材していたテレビ局の人」で固定して良かったのではないか?
「世間を騒がす殺人犯」「取り逃がした刑事」「一連の事件を追及するジャーナリスト」この3人を、観客と同じで何も知らないテレビ局の人目線で進めていけば、もっと物語に入り込める作品になったのではないかと思う。

 

とはいえ、鑑賞後に後ろにいた女性は「面白かった!」と興奮していたので、人の感想はそれぞれだが「自分ならどう描くか?」を考えるのも映画の楽しさなのかと思った。